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総支部長

国民民主党宮崎県第2区総支部

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ながとも

長友 しんじ

43歳

宮崎県宮崎市清武町出身(父:延岡市北川町出身)。早稲田大学法学部卒業後、15年間マスコミやメディアの仕事に従事し、39歳(2017年)で宮崎にUターン。日向市産業支援センター「ひむか-Biz」のセンター長として地元企業の売上アップ、地域活性化、地方創生に全力で取り組む。2020年8月に「ひむか-Biz」を卒業し、国政を目指して挑戦中。

経歴

1990年3月

宮崎市立加納小学校 卒業

1993年3月

宮崎市立清武中学校 卒業

1996年3月

宮崎県立宮崎南高校 卒業

2002年3月

早稲田大学法学部  卒業

2002年10月

フリーランスの記者、ライターとして活動開始

2009年6月

コンテンツ制作会社(株)「囲炉裏」設立。代表取締役に就任

2012年4月

(株)博報堂ケトルに入社。PRコンサル業務等を担当

2016年10月

日向市産業支援センター「ひむか-Biz」のセンター長に就任

2020年8月

「ひむか-Biz」時代に目の当たりにした地域の課題解決に本気で取り組むために国政への出馬を決意し、センター長を辞任

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趣味・特技

早稲田大学では体育局ワンダーフォーゲル部の主将として年間100日近く山に入り、登山、沢登り、山スキー、ラフティング、自転車でのツーリングなどを堪能。大学3年の春休みにはアフリカ合宿を行い、ケニア山(5199m)、キリマンジャロ山(5895m)に登頂。二つの山の間、530kmをマウンテンバイクで1週間かけて走破しました。

エピソード

幼少時~少年時代

高校の英語教師の父・慶司(延岡市北川町出身)の長男として1977年に誕生。2歳下の妹、6歳下の弟とともに伸び伸びと育ててもらいました。生まれながらの食いしん坊で「吐くまで食べるのをやめなかった」ぐらい。まるまる太るので心配した父の薦めでスポーツ少年団に入ることに。野球とサッカーで迷いましたが、清武サッカースポーツ少年団に入団。得点を決めることよりも、危険を察知し、相手の攻撃の芽を摘み、ゴールを守る方が向いていたのでバックスの最後尾の“スイーパー”として起用されることが多かったです。今は“スイーパー”というポジションはなくなってしまいましたが、自分の性格にもあっていたポジションでした。

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中学・高校時代

中学3年生までサッカーを続けました。ディフェンスにおける「最後の砦」が自分の役割だと思ってボールを蹴っていましたが、今思うと大きく前にボールを蹴り出すことしか考えていなかったことが恥ずかしい……。チームメイトは「もっと受け取りやすいボールを蹴ってくれ!」と思っていたはず。高校では『SLAM DUNK』に影響され、バスケットボール部に入部。しかし、1年生の途中で前十字靭帯を損傷。しばらく運動を控えないといけなくなり、バスケ部を辞めて国際交流やボランティア活動を行う「ユネスコ部」に入りました。ユネスコ部は当時、韓国・大邱の姉妹校とホームステイの受け入れを相互に行っていたので、韓国の同級生の家にホームステイ。翌年は宮崎に来てもらい、我が家がホストファミリーになるなど、国際交流を楽しみました。高校2年のときには生徒会長に立候補。それまで堅苦しく立候補者が少なかった生徒会を変えようと「開かれた生徒会」を掲げて友人たちと一緒に立候補し、生徒会長に。明るく、活発な生徒主体の生徒会に改革しました。大宮高校、西高校、北高校との4校定期戦の入場行進時に、生徒会長として先頭でプラカードを持たせてもらったのは貴重な思い出。

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大学時代

大学ではアウトドア活動を本気で行う「ワンダーフォーゲル部」に入部。自身の体力と精神力とサバイバル力を駆使して大自然の懐に飛び込んでいく活動に魅了され、部活最優先の学生生活に。2年生に上がるタイミングで1学年上の先輩が全員辞めてしまい、2年生の秋から4年生の夏まで、2年間主将を務めました。このときに「細心の注意で大胆に行動すること」「リスク回避・リスクコントロール」「フォロワーシップ・リーダーシップ」を学び、人間として大きく成長させていただきました。3年生のときは同期が4人、2年生が1人、1年生が1人となり部が「存続の危機」を迎え、サークルにすべきか悩むほど苦しい時代に。しかし、3年生の春休みに1か月のアフリカ遠征を成功させると、部員に自信がみなぎり、新人勧誘の反応も良く、1年生が15人ほど入部し、そこから部は息を吹き返しました。

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週刊誌の記者時代

就職活動時は、新聞記者を目指して新聞社の試験しか受けませんでした。しかし、どこにもひっかからず就活に失敗。ただ、学生時代にアルバイトしていた新聞社の出版局で、フリーの編集者やライターの方々とお仕事をご一緒させていただき、フリーランスの生き方に魅力を感じるように。結局、25歳でフリーランスとして週刊誌のニュース記者、編集者として活動し、時事問題、事件、カルチャー、芸能などさまざまなジャンルの取材活動を行いました。政治家、経営者、プロスポーツ選手、芸能人、アイドルなど様々な人のインタビューを経験し、人間の多様な生き方、人間の面白さに圧倒された日々。世の中を知ることができ、嬉々として仕事をしていました。

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会社経営者時代

フリーランスとして稼ぐことから、経営者として会社を運営するステージへ。コンテンツを制作する株式会社を立ち上げ、社員を雇い、経営者として修業。従業員やアウトソーシング先の支払いを最優先にしていたので、自分の給料が遅れたり自分の給料が出なかったことも含め、すべて学びと経験に。経営者マインドを培い、理解することができました。

「ひむか-Biz」時代

40歳を前にして東京で生活し続ける将来がイメージできてしまい、ワクワクしなくなってしまいました。当時はちょうど「東京オリンピック」の開催に向けて、良くも悪くも盛り上がっていた頃。その浮足立った東京の喧騒に違和感を覚え、もっと地に足をつけて仕事がしたいと思うようになり、宮崎へのUターンを決意。故郷・宮崎のためならどれだけでも働けると思って帰ってきました。

宮崎県北の日向市が中小企業の売上アップをサポートする産業支援センター「ひむか-Biz」のセンター長を公募していたので応募したところ、ご縁をいただき2016年10月に着任。その後、3か月のセンター長研修を受け、2017年1月に開所した「ひむか-Biz」で地元企業の売上アップ、新商品の開発、販路開拓などに取り組みました。

一方で、障がい者の就労支援事業所の施設長が、利用者さんの仕事を探していたので地元の企業とマッチングしたり、認知症の方々の居場所作り、働く場所作りに取り組んでいる方をサポートをしたり、中心市街地を活性化したいという市民団体を後押ししたり、生産者の後継者不足の解決、収入アップに取り組んだりを通して、地域(地方)にはたくさんの課題があふれていることを知りました。これらの一つひとつ地域の課題解決に取り組みたいと思うようになり、2020年8月31日に「ひむか-Biz」を卒業。地方創生に本気で取り組むために、国政を目指すことを決意するきっかけを「ひむか-Biz」をご利用いただいた皆様に与えていただきました。

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